ミッドウェー海戦
(日本機動部隊全滅)
この文章・写真・略図は、学研『太平洋戦史シリーズVol.4・ミッドウェー海戦』を参考にしています。
比較検討には、PHP研究所『歴史街道増刊・ミッドウェー海戦』、光人社NF文庫『写真太平洋戦争・第3巻』
及び新紀元社『太平洋戦争海戦ガイド』を参考・編集しました。
聯合艦隊司令長官 山本五十六大将の不安の種は、真珠湾で討ち洩らした敵空母の存在でした。第一機動部隊は南方攻略作戦を支援し、敵基地航空隊を各地で撃破壊滅させ無敵艦隊と呼ばれています。連戦連勝の日本軍部首脳には、本土が攻撃されるとは思ってもいませんでした。
当時、第一課長 富岡定俊大佐が不思議に思ったのは「山本長官は、なぜ敵の本土爆撃を異常に恐れているのだろう」という事でした。陸軍も、海軍軍令部においてさえも敵空母の事など、ほとんど意にもかけていない状況の中で、空母の恐ろしさを認識していた山本長官には、焦土と化した近未来の日本が見えていたのではないでしょうか・・・。
ミッドウェー攻略作戦『MI作戦』の立案も非常に積極的で、軍令部の反対にも職を賭して意見を通しています。ドゥーリットル帝都空襲が『MI作戦』の追風となり、正当性を証明した事となりました。山本五十六長官の本意は、ミッドウェー島の占領を口実に、敵空母部隊の殲滅だったと言われています。昭和17年5月5日、大本営は山本長官に押し切られる形で二作戦を発令しました。「聯合艦隊司令長官ハ陸軍ト協力シ『AF』及ビ『AO』西部要地ヲ攻略スベシ」(AFはミッドウェー、AOはアリューシャンの略号)
下図は上から順にMI作戦経過全図、中央が第一機動部隊(南雲艦隊)進出航路図、3番目が日本潜水艦配備図及び、アメリカ空母部隊(TF16・スプルーアンス空母部隊、TF17・フレッチャー空母部隊)進出航路図となっています。(各拡大図は2・3枚目)
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珊瑚海海戦で書きましたが、アメリカ軍は既に日本軍の暗号をほぼ解読していました。『MI作戦』も概要は把握していましたが、AFとはどこか特定出来ていませんでした。予想作戦期日までにAFを知りたいアメリカ軍情報部は、日本軍に罠を仕掛けます。それは、「ミッドウェー基地の海水を真水にする機械が故障して、飲料水が不足している」と平文で偽電を打つというものでした。この偽電を打って48時間もたたないうちに、日本側が「AFは水が不足している」と全軍に暗号で通報したのを米軍が解読し、AFがミッドウェーだと特定されてしまいます。
それを受けた米太平洋司令長官ニミッツ大将は、この戦闘が決定的戦闘になると考えて可能な限りの航空機をミッドウェーに運び込んで準備を指示しました(基地航空機115機)。日本軍作戦予定日が近づいた5月29日、ニミッツ大将は、ハワイよりTF16(スプルーアンス隊)とTF17(フレッチャー隊)をミッドウェー北東に待ち伏せさせるため出撃させます(下図 先遣部隊配置図参照)。
一方、日本軍第一機動部隊(南雲部隊)の第一航空戦隊『赤城』『加賀』、第二航空戦隊『蒼龍』『飛龍』も濃霧に悩まされながらも、刻々と攻撃機発進地点を目指していました。MI作戦立案時には、第五航空戦隊『瑞鶴』『翔鶴』も参加させる予定でしたが、先の珊瑚海海戦(MO作戦)による損傷と整備の為、参加は見送られています。(下図 第一機動部隊進出航路図参照)
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先遣部隊とは、潜水艦で予想進出航路に散開配備して敵艦船の位置を機動部隊本隊に報告する予定でした。しかし、アメリカ軍は暗号を解読していた事により、潜水艦より先に通過していました。乙散開線など、絶妙の予想通過地点なんですが・・・。
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昭和17年6月5日、ミッドウェーの長い1日が始まりました。夜も明けきらぬ午前4時30分、ミッドウェー島北西240浬(約450Km)から第一次攻撃隊(零戦36機、艦爆36機、艦攻36機)合計108機は、友永丈市大尉(飛龍飛行隊長)の指揮により、6時15分から同島の空襲を開始しました。(淵田中佐は盲腸、源田中佐は感冒で病床にありました)日本機接近中の報告を受け、待ち伏せていた米戦闘機は24機でしたが、実戦経験豊富な零戦隊は、たやすく十数機を撃墜し、艦爆隊・艦攻隊は予定通り飛行場や地上施設に投弾を開始します。
しかし、米軍は早暁から22機の哨戒機をだし、午前5時34分には南雲機動部隊を発見していました。米空母部隊からも午前7時、『エンタープライズ』、『ホーネット』から、それぞれ戦闘機10機、爆撃機34機、雷撃機14機の合計116機を発進させ、やや遅れて『ヨークタウン』からも35機を発進させています(このうち、実戦経験があるのは一部のヨークタウン隊とエンタープライズ隊)。ミッドウェー飛行場はすでに南雲部隊ヘ攻撃発進後だったためもぬけの殻で、思うような戦果が上がらず、友永大尉は午前7時5分「第二次攻撃ノ要アリト認ム」と打電します。南雲部隊は、ミッドウェー基地航空隊の米軍機による攻撃を受けていましたが、直援零戦と対空砲火により、ほとんど被害はありませんでした。南雲長官は、敵空母攻撃用に待機していた攻撃隊の魚雷を陸上攻撃用の爆装に変更指示します。
この兵装転換作業が半ばに達した午前8時9分、利根偵察機より「敵水上部隊発見」の報告が入ります。しかし、アメリカ軍基地航空隊は直援機の援護も無く攻撃してきた事により、南雲部隊は空母は近海に居ないのでは、と誤った判断をしていました。そして友永大尉の第一次攻撃隊の収容を待っている間に、同じく利根偵察機より8時30分頃、追加電報が届きます。「敵水上部隊ハ空母ヲトモナウ」という電文に南雲長官は驚くと共に、草鹿参謀長と源田中佐の進言を容れて友永隊の収容を優先し、米空母の攻撃を後に譲ってしまいます。
その電文を第二航戦旗艦『飛龍』で聞いていた山口多聞少将は、飛行甲板上にある攻撃機だけでも「直チニ攻撃隊発進ノ要アリト認ム」と、第一航戦旗艦『赤城』の艦橋に発光信号で意見具申を送りますが、南雲長官は、攻撃機が兵装転換中だった事と、護衛戦闘機を付ける事が出来ないことから、山口少将の意見を却下しました。山口少将の判断は、二航戦の急降下爆撃機だけでも発進させて、撃沈できなくとも敵空母の発着能力を封殺しようとしていたのだと思われます。2ヶ月前のセイロン島沖航空戦でも似た状況で、山口少将は兵装転換をせず、攻撃隊を発進させるよう意見具申をしていますが却下されています。南雲長官としては、護衛の無い敵攻撃機が味方の零戦によって次々と撃墜されるのを目の当りに見ていて、源田航空参謀の正攻法を採用したのです。
友永隊収容後、爆装から雷装に再度の兵装転換のため、空母艦内は弾薬庫に戻せない爆弾が山積みのまま放置されてしまいます。そんな混乱状況の中、米空母艦載機が忍び寄っていました。9時18分、米攻撃隊第一派ホーネット雷撃隊14機の攻撃をかわし、9時49分、第二派エンタープライズ雷撃隊14機の攻撃も無事かわします。
やや遅れて発進したエンタープライズの爆撃隊(ドーントレス艦上爆撃機30機)は、日本機動部隊を発見できず帰途に着こうとしていたところ、潜水艦を攻撃して本隊に戻る途中の駆逐艦『嵐』を発見しました。エンタープライズ爆撃隊は『嵐』を追尾し、10時20分、ついに日本機動部隊を見つけ、太陽を背にして急降下爆撃を敢行します。『赤城』の艦中央のエレベーター付近に爆弾1発、艦尾にも1発の計2発が命中。普段なら250Kg爆弾は致命傷とはなりませんが、兵装転換による混乱で自軍800Kg爆弾、収容攻撃機などの誘爆炎上により火炎は広がっていきます。『赤城』に起こった状況は、同じ頃、ヨークタウン爆撃隊17機の攻撃により『加賀』『蒼龍』にも起きていました。原因は、先ほどの米攻撃隊第一波、二派を迎撃するために、直援零戦隊はすべて低空に降りてしまっていたことにより、上空がガラ空きで容易に侵入されたのでした。(下図 空母4隻の被弾状況参照)
最後の空母『飛龍』は敵攻撃機の回避運動で主力から50Kmほど離れていたため、爆撃機隊に発見されず被害を免れて健在でした。炎上している『赤城』から南雲長官の中将旗が降ろされ、次席指揮官は第八戦隊司令官 阿部弘毅少将が指揮を受け継ぎました。唯一、残った1隻の空母『飛龍』で味方空母3隻の仇を討つべく山口多聞少将は独断で10時58分、小林道雄大尉の指揮する24機(零戦6機、艦爆18機)の第一次攻撃隊を送り出し、午後1時31分にも友永丈市大尉(操縦)と橋本敏男大尉(偵察)が指揮する16機(零戦6機、艦攻10機)第二次攻撃隊を発進させます。(次席指揮官の命令を待っていたら、飛龍も撃沈されていた可能性が在ります)送り出す攻撃隊搭乗員に向かって、山口少将は「ひとつ体当たりのつもりでやってくれ。俺も後からいく」と激励した事は、整備員ら生存者によって今に伝えられています。この出撃に、友永大尉の乗機が燃料漏れのために片道分しか燃料を搭載していませんでした。機付整備員であった谷井繁義一等整備兵曹がそのことを報告しましたが、友永大尉は「行きだけありァ沢山だ」と、言って出撃していきました。
友永雷撃隊の10機は、5機ずつの編隊(友永第一中隊と橋本第二中隊)に分かれ高度四千メートルでほぼ真東の方角をとって進撃しました。発艦から1時間後の14時30分に、橋本大尉は双眼鏡で右前方約三万メートルに敵機動部隊を発見。発艦前の情報により、第一次攻撃により炎上した空母(ヨークタウン)の東方約40海里を、南寄りコースに第二の空母群が航行していることを知らされていました。山口少将より、「無傷の空母を狙ってくれ」と指示を受けていたのです。しかし、ダメージコントロールに優れた米空母ヨークタウンは、日本側の第一次攻撃で爆弾3発の命中弾がありましたが、火災を消し止め、奇跡的な回復力で航行していたのです。そのため橋本大尉は無傷の空母群と判断し、友永大尉に合図を送ります。あらかじめ打ち合わせていた通り、友永隊5機は右前方に先行し、橋本隊5機は左後方に占位しました。各隊単縦陣で高度を下げながら雷撃コースに入りますが、目標のヨークタウンが右へ回避運動で転針したため、先行していた友永隊は後落して艦尾から追跡する形となり、射点につくのが遅れてしまいます。
逆に橋本隊には絶好の射角が得られ、猛烈な弾幕ながら至近距離にて魚雷を発射し、空母の艦首を甲板より低い高度で突っ切りました。橋本大尉が後方を確認していると、空母の左舷中央付近に2本の大水柱が認められ、その後二番機の衛藤一飛曹がやや小さい水柱を目撃したので、日本側では命中魚雷は3本と記録されています。この攻撃により、友永隊は魚雷発射前に3機撃墜され、残りの2機も発射して離脱中に撃墜されています。友永大尉機は魚雷発射後高角砲弾が命中し、空中爆発したと言われています(橋本隊・後部射手浜田義一一飛兵)。橋本隊は全機無事でしたが、そのころ帰るべき飛龍の運命も尽きようとしていました。
執念ともいえる2度にわたる果敢な攻撃で、半数以上の26機(零戦8機、艦爆13機、艦攻5機)を喪失しますが『ヨークタウン』に致命傷を与え、翌7日に損傷漂流中の処を伊168潜水艦が雷撃により止めを刺して沈没させます。しかし、孤軍奮闘の『飛龍』も第3次攻撃を準備していたとき、無傷の空母『エンタープライズ』から発進した艦爆24機に急襲され、ついに力尽きてしまいます。歴戦の艦上爆撃機隊・小林道雄隊長、艦上攻撃機隊・友永丈市隊長らも帰還せず、山口少将、加来止男大佐(艦長)も『飛龍』と運命を共にしました。
この海戦で、日本軍は正規空母4隻(第一航空戦隊『赤城』『加賀』、第二航空戦隊『飛龍』『蒼龍』)(支援部隊・重巡三隅)を一挙に失い、四空母すべての艦載機(253機)と戦死者3500名(練達搭乗員100名以上)という損害を出しています。対して米軍は、正規空母『ヨークタウン』、駆逐艦『ハンマン』、航空機150機、戦死者307名でした。この後、日本海軍軍令部では、生き残った将兵を前線に送り、ミッドウェー海戦敗北の機密を謀ろうとしています。
後に、作戦に参加しなかった第五航空戦隊『瑞鶴』『翔鶴』『瑞鳳』は、昭和18年8月1日、新第一航空戦隊として名前を引継ぎます。AF作戦と同時進行したAO作戦で、アリューシャン方面に展開していた第四航空戦隊『龍驤』『隼鷹』は幸いにも被害僅少でした。この戦闘による影響は、日米決戦のターニングポイントを迎え、二ヶ月後のガタルカナル上陸で米軍の本格的反抗が始まり、この戦闘以後、局地的勝利は在りますが日本軍は敗退していきます。
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『鳳翔』の索敵機が撮影した空母『飛龍』の最後の姿。
被弾損傷し、煙を曳きつつ漂流中。 |
第二航空戦隊旗艦『飛龍』は、敵空母3隻を相手に孤軍奮闘の末に『ヨークタウン』を道連れに海底に沈みましたが、もし、山口多聞少将の進言を南雲長官が聞き入れていれば、状況は逆になっていたのではと悔やまれます。アメリカ軍で実戦経験の在る空母部隊は『ヨークタウン』の一部と『エンタープライズ』のみで、日本軍6隻の空母は日中戦争、太平洋戦争緒戦の南方作戦を戦い、無敵艦隊と呼ばれる程の実力でしたが、攻撃を行う前に被弾して炎上しました。航空音痴(南雲長官)の提督が指揮を執らなければならない程、日本海軍人事システムは硬化していたと言えます。と言っても、航空作戦は源田参謀が実質的指揮官であったようです。対照的にアメリカ軍は、ハルゼー中将(皮膚病の療養の為)の推薦で、他に数人の上級提督がいたにも係わらずスプルーアンス少将が後任抜擢を受けていました。
海戦で一番の敗因は、情報戦に敗れていた事が大きいと思います。正確な情報が在ってこそ作戦が成り立ちますが、情報戦での日米人員数は比較になりません。日本軍情報部暗号解読班員は15名程度ですが、米軍情報部暗号解読班員は2千名以上といわれています。アメリカ軍は少ない空母部隊を基地航空隊で補い、情報を基に待ち伏せ作戦で最大の戦果を挙げました。
このAF攻略(ミッドウェー)作戦と同時進行していたAO(アリューシャン)攻略作戦にも、米軍に情報を与える事故が起こっています。AO作戦に出撃した第五艦隊には、第四航空戦隊『準鷹』『龍驤』なども随伴増強されていました。攻略作戦のダッチハーバー攻撃時に、地上砲火で故障した零戦が、不時着予定地点のアクタン島に着陸を試みますが、泥土の為に車輪がめり込み機体は一回転。操縦者は首の骨を折って死亡します。故障機は敵に情報を与えないよう銃撃炎上させる規則がありましたが、同行していた僚機は墜落機の上を旋回の後、銃撃しないで立ち去りました。これは、不時着した機体から同僚が出て来なくて、生きているか死んでいるかまでは上空から解りませんし、気絶している場合なども考えられるので、銃撃炎上させる事などできない心情も頷けます。
のちに米軍哨戒機が、この墜落機を発見します。ほとんど無傷の零戦を入手した米軍は、サンディエゴ海軍航空基地において研究し、対零戦の模擬空戦までおこないました。これにより、防御の弱い零戦を挟み撃ちにして1撃を加える戦法が編み出されています(無敵零戦神話の崩壊)。正規空母4隻沈没とベテラン搭乗員を多数喪失。加えて無傷の零戦をアリューシャン方面で鹵獲されるという失態により、この後の日本の運命が決まった一戦といえます。
下記の、第二次ソロモン海戦に続く
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