加藤隼戦闘隊
(日本陸軍南進作戦)


朝日ソノラマ文庫『栄光 加藤隼戦闘機隊』及び『加藤隼戦闘隊の最後』を参考にしました。
比較検討には、光人社NF文庫『隼のつばさ』及び『戦闘機入門』を参考に編集しています。


 
『加藤隼戦闘隊』は昭和19年3月、東宝の山本嘉次郎 監督によって製作・上映された映画の題名ですが、本人の加藤建夫中佐は昭和17年5月22日にアキャブにて戦死していました。しかし、部隊長が戦死したからといって、部隊まで消えてしまう訳ではありません。他の部隊と違っていたのは、部隊長が変わると部隊名も変わるのですが、開戦当初から勲功を受け有名になった事から、加藤隼戦闘隊と呼び続けた事です。それゆえ、映画や本にされる程の活躍をした証とも言えるのではないでしょうか。

 加藤部隊は正式には
飛行第六十四戦隊といい、戦時秘匿名は高九一二四部隊と言うそうです。加藤中佐が飛行第六十四戦隊長になったのは、太平洋戦争直前の昭和16年4月です。六十四戦隊自体は昭和13年8月1日に開隊されていて、加藤大尉(当時)は当時第1中隊長でした。(下図右が全図で、左は拡大図です)

 昭和16年12月7日、
フコク島ズォンド基地に着任。(上右図ー中央左)大国アメリカ、イギリスを敵にまわして、今まで考えてもみなかった大戦争が始まろうとしていました。『日本は勝たなければいけない』。隊員らは、決意に燃え中国の戦線から長時間飛行したすえ、この東南アジアの果てまでやってきました。

 最初の任務は、南方作戦の山下兵団を乗せた
船団護衛任務でした。大陸での援護は何度も経験していましたが、広い洋上で、しかも夜間飛行は陸軍での経験者は居ません。山下兵団の上陸目標地点はコタバルでした。タイとマレーの国境には、イギリス軍が日本軍の進攻を予想して、強固な不抜のジットラインを構築していました。さらに空軍はクアンタン・ペラ地区に爆撃機の主力を配置し、日本軍の進攻に対する反撃、あるいは南部仏印の日本軍基地に渡洋爆撃の態勢を整えていました。(当時、フランスはドイツに占領されていた為に、ドイツと同盟国の日本が仏印を委任統治していました)

 開戦初期作戦の
マレー敵前上陸作戦の成否は、加藤隼戦闘隊の活躍にかかっています。単座戦闘機の簡単な計器類だけで、航法を行わなくてはならない困難さに加え、南国特有のスコールという気象条件があり、護衛に選抜されたのは飛行経験4年以上の者に限られました。加藤戦隊長をはじめ総員7名は、山下船団を求め暮れなずむ海へと飛び立ちます。第一編隊は加藤部隊長と和田曹長、第二編隊は高橋中尉と中道准尉、第三編隊は国井中尉と都築曹長と細萱曹長でした。基地では、帰着時に認識し易い様にスペリー(照明灯)を用意し、尚且つ、近くの小島に赤青・赤黄の標識に灯をともしていました。

 夜10時過ぎ、帰着予定時間に2機が爆音を響かせ帰ってきましたが、スペリーに照らされた機体は隊長機では在りませんでした。帰還したのは第三編隊の国井機と細萱機で、船団護衛任務を終了後、編隊を確認する翼端灯も視認できない暗闇ではぐれ、遂に2機となってしまったそうです。船団までの距離は基地より600kmで、全船団無事でしたが、視界が悪いので平均海上100mという超低空飛行を実行していました。真っ暗闇の為に、時折光る稲妻で海面を確認、それによって機の水平を修正していたそうです。10時40分、基地上空より2機の爆音。スペリーに照らされ、見事な着陸ぶりを見せたのは加藤隊長機と和田機でした。帰り着くと、未帰着の高橋機、中道機、都築機を夜空に求める様に見上げていました。

 実は、着陸したのが遅くなったのは、基地の付近の海上を部下機を求め、燃料ギリギリまで捜索していたそうです。加藤隼戦闘隊の初任務で未帰還3人の犠牲は、他部隊と比較して最小と言えるでしょう。他の陸軍部隊で夜間洋上飛行を行える部隊はいなかったのです。陸軍では、その後も洋上飛行を行い、全機行方不明という事故も少なからず起こっています。加藤戦隊長は、航法・夜間飛行の猛訓練をしていた事で、犠牲を最小に留めていたのです。翌日のマレー半島コタバル敵前上陸は、史実にある通り成功しています。この夜間洋上護衛任務を無事遂行した実績などから、陸軍飛行隊に『加藤部隊在り』と、その名を知られました。結果、陸軍上層部の意向により、戦意高揚に利用されて映画にもなったのでした。

 上写真は昭和13年4月に撮影された
キ43の実物大木型模型(モックアップ)。初期型はご覧のようにペラが2枚でしたが、エンジンを換装したU型から3枚となっています(高出力エンジンになるほど、ペラは増えます)。

 太平洋戦争の序盤戦まで継続される、格闘戦重視主義は海軍、陸軍共に採用の基軸条件でした。戦国時代から一対一の闘いを好み、神業的職人芸を尊ぶ日本人気質には、運動性を駆使した格闘戦の追及がぴったりマッチしていました。(現在でも言えるのでは・・・?)

 最初の試作段階では、陸軍の要求を満たさず採用されませんでしたが、政治情勢の悪化から長距離飛行出来る戦闘機として、ほどなく再登用されます。

 上記写真はジャワ攻略後の昭和17年3月、マレー半島スンゲイパタニで休養中の飛行第六十四戦隊第二中隊のT型。尾翼の
矢印マークは味方の爆撃機から、絶大の信頼感をもって見られていました。加藤隼戦闘機隊は終戦まで、このマークの誇りと信頼を守り通します。

 開戦初頭のイギリス軍は、隼と零戦の識別がついていませんでした。いつ頃から、
オスカーと呼ばれる様になったのか定かではないですが、昭和17年中頃と思われます。昭和17年初期の英軍飛行士記述には『ゼロと格闘戦を試みるのは、死にに行くのと同然だ。軽量な日本機は軽快な運動性を持ち、米軍と英軍のどの戦闘機と闘っても内側に回り込んでくる。これに勝つ秘訣は、速度を上げて高度を取り、降下して射撃し、撃ち終ったら死にもの狂いで高速のまま上昇し、高度を確保したら再び降下して攻撃する事だ。それに失敗した時は、地面スレスレに降下して全速力で逃げるのだ。ハリケーンは速度では負けない。旋回戦では勝てないのだ』と書かれています。

 さて、戦闘詳細に話を戻して、昭和17年の元旦、加藤隼戦闘機隊は東マレーのコタバルに基地を設けていました。年末の16年12月25日には、六十四戦隊全軍をあげて
ビルマ・ラングーン攻撃を援護し、ハリケーン20数機と交戦、その内10機を撃墜する戦果を挙げています。開戦からの戦果、撃墜18機、炎上7機、大破14機、不確実8機、対して被害はラングーンの空中戦で奥村中尉、若山曹長が壮烈な戦死をとげていました。コタバル基地では愛機の整備と休養に勤め、次作戦までの短い平和な時を過ごしています。地上部隊はクアラルンプールを攻め、数日中には英海軍極東基地でもあるシンガポール総攻撃の予定となっていました。日本陸軍の進撃速度は凄まじく、英軍の予想を上回って防御網強化は間に合わず、脆くも崩れ去ったのでした。その理由の1ツに、マレー半島奇襲上陸のさい、自転車も多数揚陸させていた事です。戦意高揚映画にも登場しますが、銀輪部隊(自転車)として敵地先見・制圧の活躍をしました。

 数日後、五九戦隊と六十四戦隊はコタバルよりイポー基地へ進出します(移動の際、整備兵1名を隼の胴体に乗せていました)。シンガポールは日本の佐渡ヶ島程度の大きさで、イギリスが東洋に進出する為の基地として、莫大な費用を投じ、飛行場も4ツ在り、海軍の基地でもあって英軍東洋最重要拠点でした。

 昭和17年1月12日、いよいよ
シンガポール航空撃滅戦が敢行されます。第一撃は払暁攻撃であり、暗いうちに発進して、目的地まで夜間飛行で約1時間ぐらいの距離でした。軽爆撃機1個戦隊と重爆撃機3個戦隊、それに九七式戦闘機全力(青木戦闘飛行団)、2式単座戦闘機「鍾馗」1個中隊(坂川部隊)、第六十四戦隊、第五九戦隊の2個戦隊。海軍からは、プリンス・オブ・ウェールズを轟沈させた中攻機の大編隊も合流し、南方作戦中最大の航空兵力で臨みました。夜が明けない内に飛び立ち、払暁時刻に攻撃できる時間で各集団ごとに集合、一路シンガポールを目指します。

 数時間後、高
度6500mでシンガポール・セレター飛行場上空にさしかかるや、下方の爆撃隊から一斉に爆弾が投下されました。加藤隼戦闘隊も敵戦闘機発見に努めますが、いっこうに敵機らしい姿は在りません。そのころ地上砲火がようやく峻烈となり、百門といわれた高射砲が全島上空を弾幕に包みます。時折、至近弾により20度くらい煽られますが、機体に被害は在く、上空援護を続けていました。情報では、敵機150機が存在しているはずなのに、既に避退した後の様に、陰も形も在りません。腕によりをかけ、空中戦闘を期待していた搭乗員はガッカリした事でしょう。敵機はだいたいブリュースター・バッファローでしたが、この頃からホーカー・ハリケーンが多く登場し始めます(バッファローは、アメリカが連合諸国に供給した単発中翼戦闘機で、当初は日本軍機の性能なら対抗できると考えていました)。しかし、最高速度では勝るハリケーンでも格闘戦では、隼の敵では在りませんでした。

 昭和17年2月15日、日本陸軍の猛攻により、イギリスの極東最重要基地シンガポールは陥落。名称も日本名「昭南」と改められます。以降、終戦まで日本陸海軍の拠点として、修理ドックも整備されて繁栄
しました。

 上図がマレー半島の最南端に位置するシンガポール島です。写真は、センバワン飛行場に残された
バッファロー戦闘機の残骸。セレター軍港は、イギリス軍撤収時に破壊されますが、程なく復旧され日本内地の軍港に負けない設備を誇りました。

 開戦から3ヶ月にわたる休みを知らぬ攻撃、それも強引と思われる程の長距離攻撃の連続で、いかに頑健・不死身を誇る加藤部隊長でも40歳の肉体にしのびよる疲労には勝てるはずもなく、昭和17年5月22日、味方前進基地アキャブ防空任務において戦死しています。当時の編制は3個中隊36機と予備機12機、本部1機の49機が定数でしたが、完全に補充された事はなかった様です。中隊とは4個小隊(小隊3機)で、1個中隊(12機)となっていました。当時の中国軍、イギリス軍にしても実戦経験が少なく、強敵とは言えませんが、アメリカ退役陸軍将校シェンノートに率いられたアメリカ義勇飛行隊
フライングタイガースは強敵だったようです。

 陸上では、牟田口中将の指揮する弓・菊の両兵団で構成された第15軍がビルマ北部に向け、中国軍基地への連合軍物資輸送路遮断を目指して進撃を続けていました。この両兵団は後のインパール作戦に投入され、多くの犠牲者を出し潰滅しています。

 加藤部隊長戦死当日の様子は、
粕谷正雄曹長の記録に残っています。5月4日に占領したばかりで飛行場として最前線アキャブ基地は、連日の様に爆撃機の空襲をうけていたのでピスト(待機所)には交代で隊員が詰めていました。敵爆撃機はロッキード・ウェリントン・ブレンハイムなどが毎回4機程度で銃爆撃していたようです。

(以下、朝日ソノラマ『栄光 加藤隼戦闘隊』 安田義人著 より抜粋)

 その日、
『敵飛行機!』と見張りの兵が叫び声が早いか、『回せ!回せ!』と加藤部隊長が叫びながら駆け出していった。私たちも部隊長におくれじと駆け出します。走りながら敵機の来そうな来襲方向を捜しました。高度700程度、双発が我々の基地から5kmほど離れたアキャブ本飛行場上空へ侵入しているところでした。私たちがいる新飛行場は本飛行場の北の畑の中にこっそり設けられていました。本飛行場は毎日偵察を受け爆弾を落とされるからです。本来なら風に向かい滑走離陸するのですが、緊急でしたので風を背に受けたままスロットルを全開にして離陸に移りました。なかなか機が浮かなず『いけないぞ!』と思った時、やっと滑走路の細かい振動がなくなりました。敵の爆撃機は垂直尾翼が1枚、イギリス空軍の誇るブリストル・ブレンハイム中型爆撃機でした。本飛行場爆撃を終え、退路の北に機首を向けて降下スピードをつけるべく、海上を逃げていきます。攻撃は加速にならない様に注意しながら目標に向け突進しました。戦闘機と違って目標はずっと大きくて、照準眼鏡で狙いながら左手はレバーの機銃ボタンに当てています。250メートルに迫ったとき機銃ボタンを押しました。二条の曳光弾が伸びて、爆撃機の胴体に届くのがはっきり確認されます。相手が戦闘機なら100メートルまで近迫して撃ち始めますが、ブレンハイムは照準眼鏡をはみだしそうです。150メートル程度に近づいた時、敵機後部の砲塔銃座から撃ちだしてきました。敵の曳光弾がシュッとかすめます。なにくそとボタンを押す指先に力が入り、ガガッと耳元で大きなショックがありました。「やられた!」反射的に右足を蹴り、右手を倒し、レバーをいっぱいに押した。風防の真ん中に大きな穴があき、風が痛いように流れていきます。旋回操作しながら機体を点検し、再び攻撃するよう高度をとりました。顔に汗が流れている感覚に、手袋のまま拭うと血が付いています。血を見ると急に顔が痛くなり、攻撃を断念して機首を陸地にむけました。今度は念入りに体と機体の点検をしょうと振り返った時、2番目に攻撃をかけた大谷機が攻撃を終わって、機を引き起こすのが見えました。と、大谷機が突然ガソリンを噴出し、翼タンクから滝のように流れています。『大尉殿、無事でいて下さい!』心で念ずるより仕方在りません。大谷機の状況を見届ける余裕もなく、私はスピードを出して真っ直ぐ基地に向かいました。

 愛機は無事着陸し、機の誘導に駆けつけた整備員が血で赤く染まった顔を見て驚いている。2・3分後には大谷機も無事に滑り込んできました。やがて2機の隼が見えましたが、白線を引いた部隊長機が見えない。地上滑走している機に向かって、整備員共々走り寄りますと伊藤・近藤両曹長でした。

 伊藤・近藤両曹長2人の報告によると、大谷大尉に続き加藤隊長は3撃目の攻撃に突進していました。隊長は私と大谷機がやられたのをよく見ていたはずです。部下が簡単に被害を受けたのを見て、あの情厚い部隊長は憤激したに違いありません。いつも私たちを指導していたように、加藤部隊長は果敢に後ろ上方から海面を這う敵機に肉薄していきました。曳光弾が飛んだかと思うと、ブレンハイムから出火。敵機は少しのあいだよろめき、海面に激突して水しぶきと共に消えていきました。引き起こしにかかった部隊長機の翼の付根からチョロチョロと炎が見えたと思うと、パッと翼全体に拡がってしまい、近藤・伊藤両曹長は息を呑んで見つめていました。2人には部隊長がチラッと後ろを振り向いた様に見えたそうです。5〜60メートルの高度で部隊長機は、いきなりクルリと反転し、機首を下に向け海中に突っ込みました。波の上の炎を中心にして、部隊長が浮かんでくるのを期待して2人は何回も旋回し続けました。
 日本軍戦闘機は、戦闘機同士の空中戦で撃墜されるより、爆撃機の防御兵器で返り討ちにあうケースも多かったのではないでしょうか。

 加藤部隊長は開戦以来の戦功により、2階級特進の陸軍少将となっています。加藤隼戦闘隊は後に部隊長5代目で終戦を迎えました。
開戦より撃墜258機、不確実25機、炎上49機、大破95機、戦隊員161名戦死(病死39名含む)

本文の作成にあたり、朝日ソノラマ文庫より『栄光 加藤隼戦闘隊』及び『加藤隼戦闘隊の最後』の2冊参照。
詳しく知りたい方には、この2冊及び、光人社NF文庫『隼のつばさ』をお薦めします。
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